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コピーライター成長物語

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From:寺本隆裕

From:寺本隆裕

2002年の春、大阪の大学を卒業した僕(寺本)は、昔から興味のあったIT業界に就職し、東京へと行くことになりました。

特に苦労する事なく第一志望の会社(東証一部上場)へと入社した僕は、システムエンジニア(SE)として働くようになりました。働きはすぐに評価され、入社3年目に入る頃、会社が始まって以来の大規模プロジェクトの初期メンバーに選ばれました。

そこでのポジションは、5名のメンバーを率いるチームリーダー。チームメンバーは全員40~50代のベテランSEだったのですが、全員が社外の人だったので、僕がリーダーになったというわけです。

その後工程が進み、最大で50名程度の外注を管理するようなポジションになりました。外注先のリーダーとも意見の対立でぶつかったり、お客さんからは無理難題を吹っかけられて対応に四苦八苦したりしました。

プレッシャーをかけられながらも一生懸命に自分のやるべきことをやることで、徐々に周囲からも認められるようになってきました。プロジェクトの中心メンバーだけが集まる、重要課題の検討会メンバーの一員に選ばれたりもしました。

仕事はきつかった。でも、楽しかった。

自分の提案がお客さんに喜ばれる。問題が起こったとき、自分のアイディアでそれがすっかりと解決する。チームのメンバーが盛り上げてくれて、一人では成し遂げられないような大きなことを成し遂げる。

濃い数年間を過ごしていました。

でもその一方で、マイナスなことも起こっていました。

僕には学生時代から付き合っていた彼女がいました。僕よりも3つ年上。明るくてしっかり者。学生のときにバイトしていた会社の社員さん、です。

会社に入って1年目、その彼女と結婚。今の嫁さんになったわけです。でも嫁さんの出身は大阪。実家があるのも大阪。生まれ育ったのも大阪。僕と結婚するという事は、東京に出てくることになります。後で聞いた話によると、結婚式の直前には「大阪で~生まれた~女や~さかい~」という歌が、ずっと頭に回っていたそうです。

僕も大阪。嫁も大阪。僕の方はそれなりにシティーライフを満喫していたのですが、嫁さんの方に徐々に問題が出てきました。

近くに友達も頼れる人もいない。文化の違いと言うか水が合わない。僕の方も仕事が忙しかったので、あまり帰って相手をする時間もない。段々嫁さんの体調が悪くなってきてしまいました。

仕事がピークのときは、お客さんの会社に夜の11時に集合して、そこから明け方まで「重要課題の検討会」をする。そして始発電車でシャワーを浴びに帰って仮眠をとって、またその日は次の日は朝から出勤する、というような日もありました。

休日出勤は当たり前。労働時間も超長かったのですが、かかるストレスも大きくなり、段々僕自身の体調も悪くなってきてしまいました。仕事中は大丈夫なのですが、終わって電車に乗って帰るとき、ずっと吐き気がするのです。乗り物酔いをしているような感覚です。

心配になって胃カメラを飲んだりもしました。結局胃はなんともなかったのですが、ストレスで体調が悪くなっていたんだと思います。心療内科に通っていた時期もありました。血便が出たこともあります。

でもそんな僕よりも、嫁さんの方の具合がどんどん悪くなってしまいました。

次第に嫁さんは大阪の実家とを行ったり来たりするようになり、そのうちほとんどを実家で過ごすようになってしまいました。2人の関係は良好でしたが、でも、このままではいつ悪くなるかわからないし、やはり大阪に戻らないといけないのでは?と思うようになってきました。

また、僕自身もこの激務を一生続けることにも疑問を感じるようになりました。入社、4~5年目のことです。

どうすれば、もっとお金を稼げるようになるのか?
どうすれば、もっと労働時間を減らせるのか?

そんなことを考えながら、その頃からインターネットで情報を探すようになりました。

SEの業界はフリーランスとして独立する人がたくさんいるので、僕も元々はフリーのSEになろうかと情報を探していたのがきっかけでした。僕はどうやら、人に解決策のアイディアを考えたり提案するのが向いていたみたいで(そこをいつも評価されていたので)、ITシステム導入のコンサルタントになろうかな、と思ったこともありました。実際、会社を辞める直前に元上司の紹介で、ITコンサルティングの会社から「引き抜き」のお誘いもいただきました。年収も大幅アップの提示でしたが、今以上に激務になりそうだったので、お断りする事にしましたが・・・。

そこでインターネットで見つけたのが、いわゆる「ネットビジネス」で儲ける方法の商品です。

「こんな世界があったのか?」

それから、色んなeブックや教材を買うようになりました。

そして、忙しい本業の合間にパソコンを開いては作業をする。そんなことをやっていました。夜11時に家に「帰れた」日は、2時くらいまで作業をして、4時間くらい寝てからまた出勤。そんな感じでした。(帰りの電車は毎日フラフラです。運良く座れたときは、3回に1回は寝過ごしていました。)

最初の半年くらいは成果が出なかったものの、だんだんとコツがわかるようになってきました。ある日、ついにちょっとした成果が出たのです。そのきっかけが、コピーライティングとの出会いでした。

当時、何かのきっかけでコピーライティングという言葉を知り、僕はその技術を勉強しはじめるようになりました。それを自分の「ネットビジネス」に応用すると、それまでゼロだったものが、月に1万円~2万円くらいの副収入になったのです。

そこから僕は、今まで通勤途中に読んでいた雑誌「日経コンピュータ」「日経ビジネス」を、コピーやマーケティングの本や教材に持ち替えるようになりました。

少しずつ自信が出てきた僕は、「パートナー」を探すことにしました。つまり、僕がマーケティングとコピーをやって、パートナーにコンテンツを作ってもらう。という方法です。緊張しましたが、ネットで見つけた「専門家」にメールでコンタクトを取ってアポをとり、コンテンツ販売のビジネスをスタートしました。

そのビジネス(副業)は、初月から大きく黒字。

双方、利益の折半の条件だったんですが、それぞれ20~30万円ほどの副収入が得られるようになりました。

「おもしろい。」

コピーライティングのパワーを実感した瞬間でした。

本業のプロジェクトも、工程が一段落しました。僕のチームも、なんとか納期通りに約束のクォリティのアウトプットを納品することができました。しかし、大阪で療養中の嫁さんの事も気になるし、この先この激務を続けることに対する不安もある。そして、、、今副業で回っているビジネスの収入もある。

なのでこのタイミングで会社を辞めました。もちろん、強く慰留もされましたが、大阪に帰り、嫁さんの側にいる事を選択しました。

収入については、今回っているインターネットのビジネスがある。もしダメでも、SEとして再就職すればいい。そんな安易な気持ちでいました。

当時僕は27歳。第1子が、嫁さんのお腹の中にいたときのことです。

それから僕は大阪の実家に戻りました。僕の実家と奥さんの実家では、車で20分くらいのところにあります。僕は実家に自分の部屋を作り、新しいパソコンを買い、例のビジネスの運営をしていました。でも、段々パートナーとの意見の違いが出てきてしまったのです。

結局、僕が大阪に戻ってから1ヶ月でパートナーは解散。お客さんには謝って、ビジネスを終了することになりました。それなりに食べて行けるくらいまでの収益が出ていたのでやめるのは惜しかったのですが、関係が悪くなってきている以上、ビジネスを続けるという選択肢をとる事はできませんでした。

それからというもの、僕は嫁の看病に「逃げて」いました。嫁さんの実家に通ったり泊まったりして、看病をするということを言い訳にほとんど仕事らしい仕事をしていませんでした。

でも、インターネットのメルマガや無料レポートなどは、ひたすら読んでいました。

「何か手っ取り早く儲かる方法はないのか?」

そんなことを考えていました。

でも、やる気が出ない。。。

サラリーマンをやっていた頃の方が、情熱がありました。時間が自由になったのに、全く行動ができないのです。貯金はどんどん減っていきます。

「子供が生まれたら何か変わるかもしれない」そう思いながら、毎日何となく買ったばかりのパソコンでネットサーフィンをしながら毎日を過ごす。最悪な状況でした。

そんな日々が3ヶ月ほど続いた4月19日。午前4時頃。実家のお母さんから電話が入りました。

「たかひろくん!今日生まれるみたいやで!」

陣痛がはじまったのです。急いで服を着替えて、車で産婦人科へ急行。

嫁さんは苦しそう。陣痛が続いているというのですが、なかなか子宮口が開かないとのこと。僕は背中をさすったり押したりしているのですが、一向に出てくる気配がありません。

夜。医者がやってきます。

「寺本さん、帝王切開しましょう。」

緊急帝王切開が決まりました。これ以上待っても、赤ちゃんの体力が心配、ということなのです。

そしてそれから1時間後、生まれました。

僕にそっくりの男の子です。僕の一字を取って、隆星(りゅうせい)と名付けました。

涙を流して喜びました。と、同時に、はじめての自分の子供を抱きながら、申し訳ない気持ちになりました。

「こんにちは。パパですよ。」

「・・・現在、職業不定ですが、、、。」

子供が生まれても僕自身の状況は、あまり変わりませんでした。精神状態も悪かったのかもしれません。

「帝王切開で嫁さんが1ヶ月くらい動かれへんから、オレが子供の世話をせなあかん!」新しい「言い訳」をして、相変わらず貯金を取り崩すだけの日々を過ごしていました。そんな中、段々嫁さんも動けるようになってきたので、3人で住む新居を探すことになりました。

でも安定した収入がない人が借りられる部屋は限られています。なので、半年分くらいを前金すれば、とりあえず住まわせてくれるようなぼろアパートを借りることにしました。

「何かしなければ」

そう焦っていた僕でしたが、小さい「お金稼ぎ」は色々とやるものの、どうもしっくりきません。やれば少しの収入にはなるのですが、

「これでいいのか?」「オレはこんな事がしたかったのか?」

そう思うと、全くモチベーションが上がりません。いつしか、小銭稼ぎばかりがうまくなりました。夜もなかなか寝付けず、寝ても夜中に何度も目が覚める。

横で眠っている息子と嫁の顔を見ながら、胸が痛みます。

ダイレクト出版との出会い

何がきっかけで申込んだかは覚えていないのですが、僕の自宅には「トップガン」というニュースレターが届いていました。これは、ダイレクト出版の小川が発行していたニュースレターで、現在は、ザ・レスポンス・ゴールドプラスという名前として発行されているものです。

そのニュースレターをしばらく読んでいると、段々、この「小川忠洋」という人物が、インターネットで「活躍」しているほかの人たちとは全然違うことに気づいたのです。それから僕はこの「小川」という人の事を調べ、情報を集めるようになりました。

調べていくと、コピーやマーケティングを学ぶには、小川のようにアメリカから情報を仕入れたほうがいいのではないか?と思うようになりました。大学入学と同時にほとんど知識は捨ててしまったので、英語はほとんど読めませんでしたが、なんとか海外のサイトにアクセスして、情報を探すようになりました。そしてそのうちの一つのサイトにメールを送り、何とかある商品の販売ライセンスを取得する事に成功。今度はその商品を販売するビジネスをスタートしました。

セールスレターを書いて広告を出す。

反応はあまり良くはありませんでした。が、少ないながらも顧客リストができました。そしてラッキーな事に、その中に「小川忠洋」の名前が。つまり、僕の売っていた商品を小川が買ってくれたのです。

僕はたまらなくなって、すぐにお礼のメールを送りました。それから数日後、長いメールでビジネスの提案を送りました。熱烈ラブコールです。助けて欲しい気持ちがあったんだと思います。

すると、小川から返事がきました。

「寺本さん、何か一緒に、ビジネスしませんか?」

同じ大阪というのもラッキーでした。

小川は僕が提案したビジネスアイディアを前に考えたことがあったらしく、検討の結果、却下になったというのですが、別の形で何かできるかもしれないから、一度会ってみよう、ということになりました。

会ってから、すぐに別のビジネスのJVの話がすぐに決まりました。

新商品を売りたいから、それのコピーを書いてくれ、とのこと。僕は大喜びでそのプロジェクトに着手しました。

それからは、まだ社員が1~2人くらいしかいなかったダイレクト出版に出入りするようになります。小川にもコピーのレビューをしてもらううちに、

「なんて、この会社はおもしろいんやろう!」「コピーライティングやダイレクトレスポンスとは、なんて奥が深いんやろう!」

と思うようになりました。

「オレが知ってたものは、何て表面的なことやったんやろう・・・」

と、愕然としました。。。そして、僕はこのときに強く決めました。

「オレがやりたいのは、コピーライティングを極めて、そのスキルで商品のセールスレターやプロモーションを作ることや!」

と。

そして小川にメールを送りました。

「弟子入りさせてください」

それから僕は、マーケティングやコピーライティングを担当することになりました。

毎日が刺激の連続でした。

この会社には、商品として販売しているコンテンツの100倍~以上のコンテンツがあります。小川という人間そのものから引き出せるコンテンツもあれば、海外の教材なんて壁一面にあります。

ダイレクト出版の「内部」に入って学ぶ事で、独学でやっていた時の10倍から100倍くらいのスピードで自分が成長しているのがわかりました。コピーもそうですが、マーケティングやマインドセット、「物事の見方」に至るまで、自分自身が「進化」していくのを感じます。

一生懸命やるうちに、「寺本隆裕」はだんだん知名度を上げていきました。個人的な人脈もたくさんできましたし、僕の事を「小川の右腕」と言って評価してくれる人もたくさん出てきました。

現在僕は31歳。小川の元で直接コピーやマーケティングを学び始めてから、3~4年くらいたちました。

どうなったか?

数千万円単位のプロモーションを作るのは、日常のことになりました。

1つのコピーを書いてその月に1000万円を売る、というのも「普通」のことになりました。

「うちのビジネスどうすれば伸びるでしょうか・・・」「コピーを書いて欲しいんですが、おいくらですか?」

そういった相談や依頼もちょくちょく頂けるようになりましたし、お手伝いできるようにもなりました。

何より、今後どこに行っても使える「売るスキル」が身についた事で、ものすごい安心を手にすることができました。

あと、英語がそれなりに読めるようになりました。

小川は、今の自分があるのは97%くらい、ダン・ケネディのおかげだと言っていました。そういう意味で言えば、今の僕があるのは97%くらい、小川のおかげです。

直接的に影響を受けたという事も大きいですが、小川の影響を受けるというきっかけがなければたどり着けなかった、海外の教材、本、そういったようなものも、自分で見つけられるようになりました。例えば海外のトップマーケッターやコピーライターの教材を今のように積極的に買う事も、小川に出会わなければしなかったでしょう。

恐らく僕は今、世界基準のマーケティング・コピーライティングを知る、日本の少数グループに入っていると思います。僕の人生を変えてくれた小川には、死ぬほど感謝しています。

ご存知のように、今、ダイレクト出版のパートナーを募集しています。18人限定での募集です。

この企画に、出来るだけたくさんのやる気のある人に応募してもらいたい、という気持ちで今日のこの記事を書いた事は間違いありません。そういう意味で言えば、「身内」を褒めまくる今日の文章に、嫌な思いをされた人もいるでしょう。ですが同時に、この記事があなたの人生を変えるきっかけになれば、とも思っています。

案内ページにも書いてある通り、18人しか参加する事はできませんし、18人全員がパートナーになれるかどうかもわかりません。でも、直接僕らのビジネスの「内部」に入る事で、あなたの成長スピードが、何倍、何十倍になることはお約束できます。僕が体験済みです。

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寺本 隆裕

ダイレクト出版取締役。セールスライター兼マーケター。クライアントのためにセールスライティングを請け負う場合、プロジェクト1件で、一流企業のエリートサラリーマンの年収を軽く超える額をチャージ。さらにそこから売上からのロイヤリティがかかる。これほど日本で最高クラスの料金設定にもかかわらず「書いてください」という人が後を絶たない。著書には『ウェブセールスライティング習得ハンドブック』『ダン・ケネディから学ぶ「稼ぐ社長」の作り方』(集英社)がある。

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