From:リッチ・シェフレン
1980年、IBMはある問題を抱えていました。IBMは市場でパーソナルコンピューターというコンセプトを展開し始めていたのですが、コンピューターを動かす肝心のOSがありませんでした。
そこで、当時BASICプログラミング言語を使ったアプリケーションを売り出してその名が知られ始めていたあの会社、そうです、あのマイクロソフトにアプローチすることにしました。IBMは、マイクロソフトの創業者の一人、当時はまだ若かったビル・ゲイツに、協力してもらえるかどうか尋ねました。
IBMが作成したハードウェアで作動するようなコードはなかったため、また、コードをゼロから書く気も全くなかったため、ゲイツはIBMの担当者に、デジタルリサーチ社とそのオーナーのゲイリー・キルドールを紹介しました。完璧にマッチしたわけではありませんでしたが、キルドールの会社が作っていたOSは、IBMが必要としていたものに相当近いものでした。
話が面白くなるのはここからです。ゲイリー・キルドールはIBMとの会議に参加できませんでした。自家用飛行機で遊び歩いて、というか「遊び飛んで」いたと言う噂ですが、キルドール自身は「あの時は、あるクライアントと会ってソフトウェアを届けていたんだ」と言い張っています。
まあ、いずれにしても、彼は自分の代わりに妻のドロシー・マキュエンをIBMの代表者との会議に向かわせました。ドロシーは、IBMが締結したがっていた機密保持契約には不満でした。そして結局、IBMとの契約は結ばれることなく決裂しました。この苦境において、IBMは再びマイクロソフトに協力を仰ぎました。
別の可能性を試してみようと思ったゲイツは、パートナーのポール・アレンとケイ・ニシと共に、あるプログラマーに連絡を取りました。というのは、彼らはこのプログラマーが「間に合わせのOS」としてQ-DOSを書き上げていたことを知っていたからです。このOSなら、キルドールとDRIのコードが完全に対応するまでの間、IBMが提供するアーキテクチャ上で作動すると思われました。
ゲイツたちはQ-DOSのライセンスを取得すると、あっという間にそれをIBM製PC用に改良して、PC-DOSと言う別名をつけました。そして、このPC-DOSをIBMに提示したのです。
ここで、ビジネスの歴史上最も偉大な戦略の1つと考えられていることに、ゲイツはIBMにこのOSを売るのではなく、ライセンス化してその権利を保有することにし、「MS-DOS」としてそのバージョンを変えながら、以後延々とコンピューター製造販売企業に売り続けているというわけです。後は、皆さんもご存知の通りです。
「お金はスピードがあるところに集まる」という格言があります。当時もしもビル・ゲイツと彼のチームが、素早く行動せずに、IBMがもたらしたチャンスについて時間をかけて検討したり、もっとひどいことには、一から作り上げようと決めていたら、マイクロソフトは今頃、PC業界において過去の遺物になっていたことでしょう。
実際には、最初のチャンスで行動を起こし、必要に応じて計画を微調整していくことで、現在、マイクロソフトはソフトウェア界の巨人になったのです。これは賭けだったのでしょうか?確かにそうです。マイクロソフトの成功は約束されていたでしょうか?おそらく違います。
ですが、決断して行動を起こすのではなく、物事を検討しながら手をこまねいているだけでは、絶対に何も得られません。また、スピードをもって迅速に行動を起こしたとしても、「全部自分でやる」という姿勢では、それと同じ勢いで失速するだけです。
さて、あなたはどうでしょうか?
ぜひ考えてみてください。
大きな利益とその向こう側へ
リッチ・シェフレン
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